皆さんは「メディア」という単語を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?
テレビやラジオ、新聞や雑誌、そしてWEBやSNS?確かにこれらは全てメディアと定義づけられます。
英語の原義は「中間(単数形 はmedium)」であり、「あいだを取り持つもの」
直訳すると「媒介物」となり、何かと何かの間を取り持つ存在として「メディア」の概念があります。
しかし、多くの人が「メディア」と聞くと、マスメディア・WEBメディア・ソーシャルメディアを想像するのではないでしょうか。
とりわけ、報道情報として、自社の伝えたいメッセージ(製品情報や会社情報)を取り上げてもらう、ということを第一に考える性質を持っていたりします。
広報PRパーソンにかけられる期待の多くも、そういった機能が最優先となっている現状は疑うまでもありません。
しかし、闇雲に「ニュースメディアで取り上げてもらう」ことだけに集中し、行動をとり続けることが広報PRの使命と定義してしまうのは、早計だと思います。
テクニック先行で概念が広まると、虚偽や不正の温床となってしまうこともあるでしょう。
マーシャルマクルーハンのメディア論
カナダ出身の英文学者、マーシャル・マクルーハンが1964年に刊行した著書「メディア論(原題:Understanding Media: the Extensions of Man)」では、メディアについて以下のように定義している。
- 人間の関与する全ての道具・技術・行為媒体は「メディア」である。
- メディアはメッセージである。
- メディアは身体を拡張する。
- 身体が拡張されるとき、感覚の諸比率が変化する。
平たく言えば、身体の外にあるものは全てがメディア(媒介物)となり、どのメディアを用いるかそれ自体に意味がある。メディアの存在があることによって、人間は身体感覚が無限に拡がって(例:新幹線の高速移動や、遠い国のニュースをその目で見る)いき、新しいメディアが登場すると、感覚自体が変容(例:Twitterの登場でRTされたい!という欲望が登場)する。といった感じです。
この論については、半世紀も前に発表されたものであるにもかかわらず、真理を突いていると思います。
メディアの捉え方と向き合い方
個人としては、身体の外にあるものを全て「メディア」と捉えるのが良さそうです。
例えば着ている服、SNSで使っているアイコン、その一つとっても「メディア」として捉えるという心構えもそうです。
会社にしても同じで、居住するオフィス、雇い入れる社員、会社のブランドサイトも全てがPRにつながっている。そうした一つ一つを媒介物として機能させること=メディアの有効活用である、という認識に立ってみると、自社のPRがどこで上手くいっていないかを問い直すことができるのです。
そう考えると、パブリックリレーションズが企業活動の全てに関係してくるという本質が見えて来て、広報PR担当だけがやっていればいい考え方ではないことに気が付きます。
広報PR専任従事者の視点で、「メディア」を考えるとき、ニュースメディアだけに捉われてはいけません。
屋外の至る所にメディアはあるし、オフィス内にもメディアはある。そうしたメディアを用いて、伝えたいメッセージを伝えることでPRがワークするということが実際にある。
例年南仏で開催される、カンヌ国際広告祭(Cannes Lions International Festival of Creativity)の2018年のPR部門でグランプリを獲得したThe Trash Islesは、「ゴミを島にする」というメディア拡張術が人々に驚きを与え、行動を作り出しました。
メディアではないものをメディアとして表現し、それをニュースメディアが取り上げるという連鎖反応を作る。メディアという前提概念をどこに置くかによって、アイデアの幅には無限の拡張性があります。
「商業映画なのに、あえて広告をしない」という異質感を”メディア”として捉えて戦略化しているジブリ映画があるように、メディアの捉え方には正解はないし、ここを突き詰めれば突き詰めるほど、クリエイティブディレクションや広告プロデュース、パブリックリレーションズの業務に境界はなくなります。